父との対談 

 

(父)

今例えば飯田美研であってもいいのよ、三人で表現媒介の構造でアートを置かないという、今までアートは表現物の媒介物と置かれてきたじゃないか、営営と現代までおかれてきたという、その視点ではアートは無いんだぞというね。 そのことをある面じゃ作家の側がね 同意するなら参加してくれ、牧村や湯沢と俺の三人だけでも、飯田美研がこれまでやってきたことを、示せるところにきているのよ。

 

(私)

へぇぇ

 

(父)

だからもう感性、感覚、という人間のやり取りをする場所にはいない、作品(物)はそういう次元にないというね。俺たち(飯田美研)はそのへんのところをみていたのじゃないのか、と 「あぁこれはいいなぁ」とかさぁ そういうものじゃなでしょ

 

(私)

さっき言ったホワイトヘッドという話しなんだけど 実はね、ちょっと前あのその人の概要を読んでいて 数学から自然哲学 有機哲学なんだけど 

要するに生命哲学、生命を科学では説明できない問題を哲学で解こうとした 、1970年頃かな、科学でできない頃のオパーリン 宗教 哲学、存在論とか含めて、その彼の論の中に やっぱり存在と創造というのが非常に重要な問題になっていて、

 

(父)

だから自然哲学というのは神の生まれる前の哲学だったのよね アリストテレス哲学は自然哲学の場所で知的創造を成したのだけど、それにもうひとつプラスして形而上学を、神の意がだんだんと付け加えられて それは勿論 アリストテレス以降の人間が彼の自然哲学を、読み込んで、抽象的にさ

形而上の概念で読み変えていったのよ、哲学のそういう歴史があるのよね。 形而下のところに有ったはずの問題を 後になってそうした分離の仕方で

形而上に置き換えていくという知の哲学の歴史が、営々とあったのよ

 

(私)

あぁ 地上を指さすアリストテレスと 天を指さすプラトンか ミケランジェロだったっけ2人の歩いている絵があったけど

 

(父)

でそういうところの現代も形而上でオブラートできるみたいな、自然学の場合物理学だろうと生物学だろうと、物と触れている人間の自然学という

場所というのは、まぁ、はじめは自然学と形而上学というのはもともと別個であったのだけど 物と人間とを媒介する神という存在を

認識して形而上学というパイプで繋げていくという構造があった、つくってきた知の哲学の歴史が営々とギリシャからこれまでもずっとあったのよ

あるのよね。人間学のほうからそれを読んでしまったのが20世紀のはじめに完成したのよ

 

(私)

有るな、

 

(父)

そうしたなかにいて美術においても今そのへんの問題が、だから、さっき言った飯田美研が 「アートが表現 媒介というところに無い」 としたのも

まこれは現場行為のなかで暗中模索しながら、こうじゃないかというかたちで と フワっとしたかたちで言語のなかで出てきたのね。有限物界宣言 例えばだけど

それを今度は マレーヴィッチやアリストテレスにある知をもう一度僕らが読み込んでいくと、今までの飯田美研がアートでやってきたものがなんであったのか?、が観えてきたのよ、いまそれが、俺らの仕事よ

マレーヴィッチの 「無対象」というのは、何かっていったら、「実の場所」なんですよ、

「対象」というのは作品やアートを対象化するというところで、要するに形而上学で観てしまっているのだ、と気づいたのですよ

つまりオブジェ(対象)として、作品やアートを観てしまうということは、つまり頭で分析したものにすぎないのだ、ということに気づいたのですよ

 

その物(作品)やアートが、その「実の場所」からどんどん離れてしまっていることは、つまりはそれは

メタファー(表現)だとか、媒介(メディア)だとか、仮想(ヴァーチャル)だとかいう、

極端に言えば、神の意=人間主義=アートという、人間のそうした意識や認識に引きずられてしまっている 

対象(オブジェ)という概念は、結局その物の、実のアート、実の存在と、私の身体とが触れているのでなくて、

分析、いってみたら科学の次元だということね、そういう認識で観ないところのもっとアートの実の場所があるのだと、

そういうことを、アートのなかで見出し、僕らは提示しているのですよ。

 

 

(私)

マレーヴィッチの「零の形態」あれ読んだけど、けっこう面白かったけどな、社会文明論みたいなかんじがしたけれどな

 

(父)

一番面白いのは対象というものの見方ではないというところ、つまり今までの形而上学ではないところの、

そういう今までの認識次元の構造を、否定しているところが面白いのですよ

だからあのマレーヴィッチの黒の正方形というのは黒の正方形という概念があるのではなくて、

そういう実体(実態)を言っているのですよ=感覚と言ったけど

だからフォルム論なのだけれど今までのフォルム論とはまったく違ったところのフォルム論なのよ、

それを誰も読みきれていないのですよ、美術評論家たちは

 

(私)

ふむ、読みきれんなぁ

 

(父)

だけどぼくらがもの(作品)にふれているときに 例えばもしかしたら生物学者たちは、極端に言えば、そういうフォルム論をもっている可能性があるのよ

葉っぱのカタチというのを実体としてみることができる、とマレーヴィッチが書いているのだけれど その場所は対象化できないものとしてあると。

 

(私)

あの零の形態で、セザンヌの色形線を徹底的に絵で追及していく そのところで以降、ブラックやピカソキュビズムとか フォルムのその頃の美術の変遷をすごく丁寧に書いてあって、絵画のオブジェについてしっかりと書いてあるのを読んだけど、なんで対象(オブジェ)を否定したのか、無対象としたのか、矛盾している。

 

(父)

そういう意識や問題を彼が引きずりだしてきたのはひとつ大事な場所だと思うが、でもそれが出てきたのはパウル・クレーのフォルム感が先にあるからよ。フォルムのそういうバウハウスの実用のなかに、アートのフォルムとは実はそういう場所にはないのだぞ、ということを、彼はそうして無対象という言語を使って彼らに対していっている、

だけれども、つまり、 表現、媒介、によって全部閉じられてしまっている、今の現代アートの論者たちから観ると彼の特異なフォルム論として、彼をそう評価しているのですよ。そう読むこと、そう観ることしかできないでいるのも確か、評論家たちが今でも

 

(私)

黒の四つの正方形とか あの作品、の

 

(父)

だからそう、彼のフォルム概念を彼の特異な概念としてだけ、美術史においてその烙印を押して、閉じてしまっているのね、論者たちの多くがね

でも彼は、今までのセザンヌキュビズムというフォルム読みとった対象的なことからみんなアーティストたちが、こうやって離れているのだ、と 

無対象というところからそれを引きずりだしてきたのよ、見つけてきたということなんだよな。

 

(私)

ん? ちょっとよくわからんなぁ

 

(父)

つまりね、パウル・クレーや彼らバウハウスのデザイン的な、実利のフォルム感、意味のそれに対しての否定があって それに対してノーといった場所、これは画期的だったのよね、でも美術論者たちや美学者たちもそれを読もうとしないのね。

 

(私)

ふむ、アンフォルムとかがあった時代 後になってあったじゃないですか、アンフォルメルとか アメリカのポロックとか、

マレーヴィッチのその本のなかに、「縁フチの世界」というのが書いてあって その一番外の世界が一番イリクンデいて一番面白いとか、

でその全体の世界がオブジェ化している で だから創造っていうのは、なんていうのかな、

その縁があってその境界があってその対象化されたその世界を その縁を壊しているのかな、

アンフォルムというフォルム感もなんとなくそんな感じがして、無対象の世界というのは 

もしかしたらそうしたアートの流れが彼のスプレマティズムから引き継がれているのかな、そんな気がして

 

(父)

んん あのなぁ 違うのよ、マレーヴィッチの言うフォルムというのは、人間の範疇にはない神の言語にフォルムを引きずりあげようとしたことなのよ

 

(私)

宇宙観というか? あの人のコスモロジーとか? よくわからないな

 

(父)

そこに彼の一番の弱点があると思っている。 マレーヴィッチもフォルムというものも具体物から入っているはずなんだけれども、

少なくとも飯田美研がアートでやってきたことは、物からフォルムが出てくることはあっても、フォルムが物から離れて 概念やデザインや表現 媒介、仮想

宇宙だとか神だとかいう、そういう先にも言ったけど そういう形而上に向かうことは有り得ないのですよ。


つまり彼の唱える無対象という世界は 現代アートでも今も営々とやっている「表現」というのを、いまだに抱えていたのは作品や論からわかるのですよ、

「表現の媒介性」というのは部分的に拒否しているのだけれども、表現、つまりメタというのをやはり彼も、アートから外せなかった。

つまり先にも言ったように彼にとって、神の意の絶対性、その価値観に入ってしまっているのですよ。

そこに俺は、彼の、20世紀の、人間主義の、ひとつの、限界があるのを観てしまうのですよ。

 

(私)

あぁ 「神の意を使った表現」、そんな言葉 聞いたことがある、ラップの詞だけど、

 

(父)

でこの期間、マレーヴィッチを含めたイデア論的なものがはいりこんでいる アートの場所には 先の話だな

それをまさに拒否していたのがいたとしたら、どこにいたのか? といえば、イオニアの自然科学者たちなのよ

彼らは神も、人間社会のなかにも居ない場所の、自然に対して物に対して触れていた人たち、アリストテレスの前の、

どのようにしてそうした人たちが生まれそうした場所が形成されたのか、そういうところで生まれてきたものを

ある柄谷の本の一冊を読んで あるとき柄谷行人の「哲学の起源」という本を読んでいて、気づいたの。

なぜ?マレーヴィッチは、神なりそうしたイデアとアートとが、結びつけられたか どうして?彼もそうなっていくのか、

柄谷氏のその本に論じられている内容に照らしてみると、その疑問が解けたのよ。

 

(私)

なぜ? どうして? その疑問がどんなふうに解けたの?

 

(父)

ちゃんと俺の文章読んでくれ

 笑 、、

それを切らんと今のヴァーチャルは切れないのよ だからそれが去年俺の書いた文章なのよ、 そういう場所な。

つまりフォルムというその抽象言語のなかで、物を置くことを拒否しているのは なぜか?というと

「地上の在ること」の話をしろ、とアートでは 今までの概念や形而上の話はするな、そういう場所なのよ 笑、、

 

(私)

あのさ、あの、その 「在る」 について、ちょっと言いたいのだけど、ちょっとある人が ま 先のホワイトヘッドの、そのなかに気になる一説があって

その人は、生命哲学の、やっぱり 無から有なるところの生成していく という場所があるじゃない、生命という場所の 

で彼はその生成過程そのものが「実在」だと言っているのね、ある日本人が誰だか忘れたけどホワイトヘッドのそれをもう少しわかりやすく読み換えてて

「成る 為す 在る」という、 あるいはこれは、イオニア哲学の人だったタレース (ちゃうわヘラクイトスだ)「万物流転」というのを言っていたけど、仏教にもずっとそれはある話だし、でもこれって神でも形而上哲学の話でも概念の話でもなく、実の場所としてそれが在るという、我々が知ろうが知るまいがそれが在ると。

「生まれる 生きる 死ぬ」「become   do   be」という場所 人間だろうと生物だろうと たとへ物だろうと 

それと同じところで「地上の在ること」なんじゃないのかな?。アートじゃないとはたぶん言うかもしれんけど、

 「 成ること(変成)become. 為すこと(行為)do. 在ること(死)be. 」 というのは、、俺はね、父たちのやってきたアートのなかにそういのを観ていた気がしてるんのよね。

 

 

 

、、つづく。


 

 

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