父との会話

  
 
                

 斜め向かいに座りふたりの交わす話しの中身は、美術評論オタクのあったまのわりぃコントに違いない。ほのぼの系で長生きしそうである。3月13日 に家に来た父と私との会話をホイスレコーダーより書き起こしたもの。 2018.04



父)ほとんど黒と銀ぐらいだね。黒は水性ペンキ、このなかに痕跡が出てきたじゃん。この二年ほどほとんど全面黒いって感じ、こっちの部分に色見がでてきたの。痕跡の形がでてきてるもんでその部分の色見を消したの。そして一枚ものになるんだけど。
そしてこのなかに一二三四五、六、六個の体があってさ。それがここのなかに動いてきたのよ。そんでさ、平面をつくることを辞めたの、絵画のなかに平面を作ることを辞めたの。こういう痕跡のなかに平面性を求めなかったのよ。これは俺にとっては新しい仕事。


ん゛ん゙ーん(私は咳払い)

私) あのさ、グリンバーグって美術評論家、テヴォーっていう美術評論家とか、最近読みたいなって思ってて、ちょっといい。ユリイカでセザンヌさ。(その本を持ち出し文章を探す)

父) 名前は聞いたことあるなぁ。今の論はおもしろくないのよ。過去の人のほうがおもしろいわ。

私) あぁでも、セザンヌの疑惑の、メルロ・ポンティもでてくるよ。……、「モダニズムのもとで絵画芸術は自己を批判し定義していく過程にとって、何よりも根本的なことは、表面の不可避の平面性を強調することだった、平面性のみが絵画にとってユニークで独占的なものであったからである」「世界はその表面を、その皮膚を剥がれた。そして皮膚は、絵画の平面性において平に広げた。絵画芸術は視覚的に立証できるものに自己を限定したのである。」ここらへんはわかるんだけど、セザンヌ絵画から現代絵画をどう捉えるかってことで、で、すごくびっくりして、おもしろかった「ミシェル・テヴォーがはっきりと次のように述べている。セザンヌといえば、構築性、モニュメンタリティ、構造地質学的厳密さ、円錐形や三角形や球による配置などについて私たちはかたり、彼を印象派の画家たちに対立させるのが通例である、しかし美術史のこの紋切り型は吟味に耐えうるものではない、と。かくして前景化されるのは、中心の脱落、爆破した表面、カオス的なタッチに砕け散った輪郭、解体されて相互に浸透しあう形態。といった特徴、個々の物は、その固有の存在によってではなく、ネガとして、つまり、それではないものも全体、それが否定するもの、隣接する諸々の事物へと送り返されるアレルギー反応によって、水平的で逃走的なファシナシオン魅惑のために次々と連続的に脱中心化する眼差し」、であと云々、精神分析の話しになるんだけど……。ど……。なんとなくさ。日本人ってこういうことを好むんだ。とおもうんだけどね。そういうものを日本人がちょっとお気に入りの文脈を紹介し抜粋してるで、なんだかね。そんなあっちの考えをすぐに近親相姦、大流行りしてるからね。

父) そのへんの言葉をさ、その辺と、おまえはセザンヌの作品のこととはどうなんだ?。

私) なんだかね、なんていう作品名か忘れたけど、花をモチーフにした水彩画であるんだけど、ものすごく親しみがわいたな、展覧会で観てね。小学生のころ描いた朝顔とおんなじだな(笑って。上手い下手は別にして。絵の具ののせかたがさ、すごく油絵の、例えば、父が椅子に座って新聞を読んでる作品、あぁゆうのと違ってすごく、言っていいのかわからないけど日本的なものを覚えた。

父) あぁ 、 塗り残しの水彩画か、そうか。

私) でね、この「ネガ」っての、うぅよくわからない。

父) だから、その言葉だけであれするとさ。例えばここに紙があるじゃんか。ここ、(ラフ、ベニヤ板をコンコン叩く)描かれた面があるじゃんか、色だけ見ると例えば白と黒と、いままではさ、みんな色としてさあ、ところがここに、セザンヌであろうと、お前であろうと、作品のここに、キャンパスがあって絵の具の塊があって筆跡があって、一方で山や風景があったりラフがあったりとさ、それの、ネガっていう言葉で言ってるんでしょ。要するに色や形だけでなくって、もうひとつ別なところで紙であったり鉛筆であったり、とくにセザンヌは、こういう重なり(手のひらを合わせる)でなくって、ずれてたりとかさ隙間があったりしてるじゃんか、(手の指で重ね、網目をつくる)こういう重なり、
そこだけ見ちゃうと絵の具の物的な、だけど実際は風景から見るとこっちはネガ、逆にこちらから見るとネガっていうかさ。言葉でなんていうか、この違い、アンバランスのなかでやりとりをしている。で、今まではさ。平面に全部くっつけていってきたからさ、あるいは全部ネガだったのかもしれないな。で平面をつくることに、やってきたんだけどセザンヌの場合には、そこに紙であったり絵の具であったりとかがさ。それを現代絵画がコラージュとかフロッタージュとかそういう方法が同じように今でも絵画はその平面で読むんだけど。この人(評論家)がセザンヌの絵のなかにそうした構造があったということを評論の視点から言うと、でも、お前も絵をやってるんだから、セザンヌがそういう見方をした絵画性があったということを。絵画は平面をつくることだけじゃなくてもうひとつそこに別なものが加わったことを見ないと。製作をやっている側から、そこを見なきゃいけないよね。キャンパスの地が出ていたり、絵の具の塊がのっていたり、染みてたり、とかさ、そういうものを彼の絵の中にあるということを、読みとれると思う。この読みじゃなくてもひとつ読みとれると思う、今までの絵画の平面をもうひとつ豊かにした場所として キャンバスをそのまま置く という、ね。


私) また、別の見方もある気がするけどね。ただもう、あっちの受け売りをわかったようにさ。頭でばかり、何も無いから本の評から"ま"に受けて。コップの水をあちらからこちらへちょっと色つけてうつしかえなんばっかり。自分で考えろ、自分から考えろ、自分で言葉にしろ、と言いたくなるわ。

父) あぁ、だから自分で見なきゃいけないね。嶋本氏もそうだけど、何回言っても、やっても、自分でその作品みようとしないのよ。みるとさ言葉になっちゃうからさ、当然彼らがやってきたことってのは言語に、させない、そこなんだろうけど、それではでも弱いね。(父は先達亡くなられた、美術作家の嶋本昭三さんのお別れ会に出席し、その帰りに私の宅に寄ったのだった。)

私) その話しはもういいよ、まぁ、、無私性、対象喪失とか近いニュアンスが、なんかがすごく絵でも、時代の意識にかなり強くのぼってきているのかな。って、文学でもところがなんかあってね。中心を失うってのはなんなんだ?空間を平坦化させる、そういうところへ……、


父) はっ、そうじゃないぞ。(父はつかさず口を挿む)、空間を平坦化…、そうじゃなくって、遠近法ひとつとってもな、立体物を平面化させるというよりも、平面に立体物を載せるための方法論だからね。

私)あぁ逆なんだ。

父) そうだから、その以後どんどん平面性という問題が出てくるんだけど、考えてみたらそういうことによって視覚という場所が顔を出してきたということ。だから西洋では最初、風景もほとんどなかったじゃんか。人物の物語のそういうはなしでさ。それが風景も画面に載し得たのが遠近法よ。これを出すためという発想ではなくて(机のカップを指さしながら)、こういう風景が(部屋全体を両手で示すような仕草をしながら)空間が平面になし得ることができたのが遠近法なんだけど。だから、ちょっとちがう、あくまで西洋でのはなし。

私) ルソーとか、

父) アンリルソー?

私) そう、なんかなんにも遠近間がないじゃん。あれっていうのはそういう遠近画法について何か違和感があってわざとそうしているのか?と思うけど。

父) あぁ、あぁ、だから彼は、なんちゅうの…なんだろう子供であろうと、「トン、トン、トン」(煙草の箱を持ち、ちゃぶ台を叩く。違った場所を叩きそれぞれの距離や配置を示す。)要するにこれを可能にしているわな、彼は。(上手く言葉にできないでいる父。)

私) あぁ(わからないことに生返事する)

父) 絵画が遠近法だとかビジュアルだとかなんとか言って、だけど、それへの実際に面をつくるという方向に行ってしまったことは事実なのよ。だから風景がなくって、さっきの、あぁモンドリアンの話しじゃないけど、さんざん樹をデッサンして、あぁいった線とのやりとりだけになっていくわ。それを彼の抽象の始まりとしていいかは知らないに、おらぁ。でもなんでそこに引っ張られて行ったかというとき、ベースが平面であるからということ。だから空間を平面にのせるというのに人間は何をやってきたのか、例えばエジプト壁画なんかみるとそこに物語とか、面、要するにその中で記号のやりとりをしているじないか。………だから西洋の場合には平面を塗るという底辺ががあって、線をひくということじゃないのよ。だから俺は、先生*1の言う“絵画の線”という事じたいが、絵画じゃないのよ、西洋絵画の流れから言うと、面なのよ。要するにそこに線をひく、日本人が線をひくということが何なのか。これ、これはさ、あの人の言う親鸞の話しじゃない、そんなふうに解釈していいわけじゃないはずだけれど、特に西洋の流れで線が出てくるのはある意味じゃ不可能に近い、線でも面を持っている線。だからそういうなかで吉原*2の最初の作品の筆跡が出てくるのは線であっても面を持たないのよ。そこにいろんな問題が出てくるし、おもしろいっちゃおもしろいんだけれど。

(*1)画家遠藤剛熈、絵の先生として筆者が教わっている人物。
(*2)吉原治朗、60年代、日本での現代美術が世界的に注目された一時期、具体美術という作家集団の創始者。父は直接彼とは親交はないものの、その後継者との交流が当の作家活動に大きな影響を与え続けている。嶋本昭三氏もそのひとりだった。


…つづく。




( その後も四、五時間に及ぶ、美術うんちく糞溜めトーク、グダグダ、読む為になるも中身が全然もんもん、しんどいが、携帯打ち、いずれ父に近く、当対話文書プリント送りつけ、5月長期休に再度対話を繰り広げる計画。私と父のためだけの一字一句そのままを )

私)吉原治良とか知らん、観たことない

父)そぅか具体のできる前は線なのよ。

世界現代美術画集、を開く。(ここに載ってるかな、・・)


父) 世界の現代美術の形で日本人が載ってるか知らんけど、こういうのも、俺たちは筆跡の世界を知ってるから、だからまったく特異な現象なのよ。

私) 模様?

父) 模様じゃなくて・・・、
だからセザンヌのこうところの在り方が筆でポッポと置かれているじゃんか。

これを筆跡性と言ったらセザンヌの絵画は成立しないはずなのよ。だからさっきのような読みができるのよ。でも部分的に観たら筆跡なのよ。

私) 加藤周一が遠藤先生の絵画の講演で、「絵画を部分的に観たら現代美術だ。」って言ってた。

父) まぁ、筆跡が現代美術かどうかはわからないけど。例えば小原先生*1の作品なんかは、あのね、筆跡なのよ。マチェールの時もあるんだけど家にある「女の像」の絵なんか、なっんかい!も描いてるのよ。これをね。(髪をすくジェスチャーをする父。)

だから色が、下地の色と上がでてきたりするんだけどもね。そのやり方が“面の方向”ではないのよ。面なんだけど面の感じとちょっと違う。やっぱり痕跡があの絵に動いてるんやろな。セザンヌとはちょっと違う。

(*1私にはほとんど不可解だが、子供時分からみていた忘れられぬ絵だったから、自分もそれなりに言いたいことがある。父と5月にふってみよう、小原先生に教わり父は美術に一生捧げる決意を固めた )

私)痕跡、筆跡、ゴッホのタッチ、あれはもう痕跡という一言を凄く感じる。まぁ彼の油絵をタッチで観ちゃう素人なんだけども。

父)ゴッホなんかは絵の具よ。こないだ観て驚いたんだけどもブリジストン美術館かな、で、あの、モネとかルノアールとかがあるのよ。平面の筆跡性を観るのな、俺なんかは。でもその部屋にあったゴッホは“平面の筆跡性が絵の具のなかに入っちゃってる”まったく別な、色質感が出ているわな。同じ絵の具を使っていると思うけどな。そりゃあの時代の油絵の具ではあると思うけど。

私)絵の具の素材が、確かに観る者に、こっちにストレートに、像とか視覚の再現よりもずっとそちらのほうが強いね。そのタッチ、彼の現場の息遣いが観て感じる

父)モネやルノアールの筆跡も空気や光、そのへんでは確かに動いてるんだけれども、ゴッホは光や空気とかじゃなくて…

私)色に求めていたんだろうね、日本の浮世絵の広重の配色について絶賛しながら分析してるのを読むけど

父)だから要するに彼ら(印象やゴッホセザンヌ)がずっとやってきたのはさ。ビジュアル。ゴッホの頃にフィドラーという美学者が、視覚という問題を引き出してきたんだけど、視覚がすごく抽象的な様相を孕んでいるってこと、だから絵っていうのは記号的な言語的なものをいつも持っている。それが具体的なカタチになったのは、俺は、パール・クレーの、あの平面造形のなかにそれはひとつ完結したのかなと思う。

私)で、どの、どの作品?

父)俺は、自分で観て、わら半紙のなかにただ線をひいてるだけの作品を観てね。「あっ!これだな!」と思った。他のは、まだね、鳥が飛んでるような、ものがね。いろんな具像的なものがいっぱいあるんだけど、あるひとつの作品にさ、鉛筆にこ―――う――線がひいてあるだけなのよ。ひとつの線が、紙からはみ出してるなら四角が全部壊れちゃうじゃんか。

私)はぁああ(知るか!)

父)線が出たり出なかったりという、もうちょっと長いほうがいいとか、もうちょっと短いほうがいいとかじゃなくて、ここでなきゃダメなんだ。という緊張感がある作品観て、あ、これだな。と思ったね。

私)クレーの日記…まぁ、まだ拾い読みでしかしてないけど、あの人…

父)俺は名古屋に大量にきたの観て、いろんなことしてるんだけど彼、「あ、これしかない! 」パール・クレーの絵画の成立性は、ただこのいってんしか、ないな、(と豪語する父の体験を第三者、(聴き手の私、読者が体現するのは不可能。))

私)あの人の線は、フリーハンド、細かー細かー、なにこの技法! 素朴ながら新しい技法をどんどん作品に採り入れてる、のは感じた。で、なんかしら、霊感がある。なんだろ?、人智学の、バウハウスの、思想家の…。

父) ふーんシュタイナーか?シュタイナはバウハウスとちょっとズレがあるけどな。俺も詳しくはないけど。

私) あそぅ。音楽がものすごい好きだったらしいね、彼の日記を読むと。絵画のなかの音楽、その技術、技法についてももちろん、でもどうかするとアッチの超感覚的な霊感世界を、制作でのメモとか詩とか、文章読むんだけど、そんなこと感じるね、彼の求めてるのがなんだったんか。を感じる。

父) あぁ、そういう音楽的なところはあるわ。パールクレーと言ったときに、多く言われるのは、詩的な、ところで言われちゃうんだけどそれはある面じゃポエムの話しであって、絵画の話しは違うのよ。パールクレーの絵のその一点を俺は観ちゃった、変に何か線を加えたりとか変に何か形状を加えたりするとかじゃなくて。

だから自分の目でさぁ、自分の身体のなかで絵画の読む作業をしとかないと、みえないと思うのよね。世の中の人はそこで音楽だとかさ。だから俺のなかじゃ、カンディンスキーなんか、中期の作品なんか絵画は成立してないと思ってるからね。あれは平面を造ろうとして絵画の絶対限定をはみ出してるっていうか、いい意味じゃなくて、全然成立してないのよ。要するにあれは俺からしたらカットなのよ。有名な「色と形の交響曲」とか世の中の人はあれについて言うんだけど。どうしょもない。色と形だったらカットだよな、でももうひとつ絵画をそこに成立させるために、カンディンスキー自身も困っちゃって。彼はまた、具像の風景を描くのよ。中期の作品からなんとか離れようとして、で、作品全部の四隅を塗らなくちゃ、風景は極端に言うと、四隅を囲えば成立するじゃんか。その枠内に全部意味があって、そのあとに色面に入ったのよ。そすると、色面を得るためにパールクレーが彼の「横に」居たからね。パールクレーの色面を観て、カンディンスキ彼自身もどうしょもない、できないでいるなかで、ようやっとパールクレーのお蔭で、彼とのやりとりがあって、ようやくカンディンスキの絵画の成立出来た。色と形とは確かに絵画の要素だけど、それじゃ「カット」なのよね。だからカンディンスキの作品が絵画として成立したのはパールクレーとの出逢いから、後期の作品でようやく彼の絵画が生まれた。

私)まるがあって線があって…しか観たことないし、画集でしか。

父)まぁ、批評家は、有名な、「色と形の交響曲」の作品ばかりを、いろいろ取りだたして書いてるけど、作家の眼からしたら、あんなのどうしょもない。絵画以前のカット。絵画として成立しえてないのよ。

私)ん゛ん(咳払い)

父)そういうバウハウスの動きのなかで、勿論あの時代の、建築やデザインのいろんな作家の出入りがあったんだけど、マレービッチもそのなかに居たんだけど

私)あのさ!いつもお得意のマレービッチ、また話しにのぼる、も、いい、わかった。わからんけど、も、いい、寝る、明日仕事だし。(深夜2時)

父)よするに、セザンヌ現代アートの始まりとか言うけどまだ平面での話しだわ。で、マレービッチは感覚の話し

私)ん゛ん(咳払い)

父)マレービッチは感覚の神ではないけど、絶対的な形而上としてさ。この場合はそういう世界、人間の世界のはなしなのよ。人間が平面を造る話しの作業。だけど、マレービッチが、「無対象の世界」という論文のなかで、直接言語には載せないけれども、パール・クレーとかカンディンスキーとかに対して、おまえらのやってることは、なんなのか?という痛烈な批判を載せてるのよ。名前は挙げないけど、その構造を批判するのよ。そして、感覚自体というか無対象の世界を、作品自体が何かの啓示や何かの表現ていうものではなくて、それ自体がひとつの感覚、四角の感覚がここにあるという、それがある面じゃ絵画が求めている、

私)いや、それはワカランわ。本当に難しい。西洋の歴史や、生まれながらにして培ったあちらの風土で生きて居ないと、ほとんど、は?なんじゃ?
四角を壁面に見せてこれが感覚だ!とかほざいても、もう、こっちは、は?
でもね、僕は思うのは、たぶんそういうふうに我々にひとつの、“それ”形を目に焼き付けさせることの鋭さって、キリストの磔の十字架のような見え方が、西欧の人たちのどっか心の奥底と類似したものを観てしまうのかもしれない。非常に観念的なさっきのアレルギー反応じゃないけど、敏感なのかもしれない。

父)今までの造形のあり方がパールクレーやカンディンスキーもまだ人間の感性でしか、絵画はそれ以上のことが未開だったと思う。だけどマレービッチは全然別のどころから絵画を開示したと思うのよ。これがアメリカの切断のミニマルアートとかをその後造り上げてきた。

私)なんかあるんだろぅな。と思う。でも日本人にはすっごく難しい。

父)神とかさ絶対性とかさ。あると思うよ。

私)で…何で無対象なの?

父)だから、今までは対象といったら具像の形象の話しじゃないか。フォルムの、人間の(ユマニテ)が入り込んでるわ。
人間は入り込めないんだ、と。1+1は2ってそこに人間が入り込めんじゃんか。「正方形自体が感覚」と言っちゃったのよ。これ自体が成立している

私)あるんだ

父)絵画がどこに求めていったのかが、今までは宗教的なやりとりだったり、意味だったり人間のやりとり、それから離れていって私の平面を造るやりとりに入っていって今度はもう、私というのはもはや必要ない。

私)沈黙

父)だからアメリカの大画面*2というのは、真っ赤なのがあれば赤という感覚と人間とがやりとりするだけな。

私)人間との対話があるじゃん。

父)だから感覚がここにあるのと、そことをやりとりするのとがな、やり方がね、こちらに今までは人間がいたのよ。

私)あぁ ...神がいた。

父)あぁ、ある面じゃ神とのやりとりするみたいなものなのよ。人間から離れてな、感覚の色自体がやりとりする、やりとりはできなくなる実際は。暴力の視点、人間はそこのなかでは抹殺されるのよ。色の世界のなかに埋没させられる。

父)だからあのー、フランク・ステラが言ってるけれども、今までは小説を読んでも始めから最後までずっと読んで1週間読んだら1週間で人を殺してしまうと。ところが自分のやってることは、赤なら赤が、なんか意味とかなくて、赤と人間が対峙したときに、人間自体が赤のなかで全部死んでいくんだという…人間の有り様を小説なんか全部しめこんでいって最期終焉をつくっていく。そして完結するんだけど、それを今まではヒャーマンを云々しただろう、自分が1週間かけて読んで自分が死んでいくんだ。と。「この赤は何の意味があるのですか?」川村美術館の学芸員がテレビで質問しててさ。ステラは、「この赤は何か意味があるんではなくて、あなたと赤が出会ってあなたが死んでいく場所なんだ、」と。学芸員の質問もおかしな質問するわ、なんちゅう質問するんだ、バカ、笑)何を表現してるんですか?って表現って言う言語なんか今美術じゃ成立しえないのよ。人間の表現の範疇じゃないんじゃんか。どういう意味があるんですか?って、だからあなたは赤で死ぬんです。赤に危険信号だとかそんな意味はまるでない。そのままだ!。マレービッチじゃないけどな。正方形そのままだ!…そのままとあなたとがただ対峙してるだけだ、と。そこに人間性だとかそういうのは問題ではない。


…つづく



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